作:ファンファンさん
ドルフ帝国の南東部に位置する円形のフラウィウス闘技場、通称“コロッセウム”は石造りの巨大な建築物だった。
舞台からほど近い広いスペースは貴賓席だ。ワイングラスを乗せた七脚の小さなテーブルの間に同数の椅子が居並ぶ。どこかゆったりとしたベドウィン風の民族衣装を着た男女が笑いざわめきながら、ウェイター役の黒服たちが忙しげに立ち働いている。
観客席部分は五階に分けられており、下から煉瓦のベンチが階段状に数十段ある。
「君が、例の生き残りの小娘か」
蒼髪の若者は、ひときわ大きなテーブルを一人で占領していた。足を組みながら、ワイングラスに注がれた赤い液体をさも美味そうに口をつける。
連れてこられた少女は顔が真っ青になっていた。何度か口を開閉するが、緊張のあまり声が出なくなっているらしい。なにせ両脇をあの“化け物”に囲まれているのだ。無理もあるまい。
「・・・・・まあ、いいさ」
若者が立ち上がろうとしたところで、ようやく少女が口を聞いた。
「こ・・・・・の・・・・・化け物!」
「・・・・・ほう?」
居並ぶベドウィン風の民族衣装を着た者たちから鋭い視線を浴びせかけられた少女は、一層萎縮した。それらの視線を蒼髪の若者は片手で制すると、
「我らが“化け物”と?なぜだ?」
「決まってるじゃない!その歯、その爪!他になんて呼べばいいの!?」
「これは異な事を」
若者はくつくつと笑声を挙げると、廻りの者たちもそれに習う。
「お前の慕う愚者皇とやらは、もっと化け物ではないか?魔神などとたいそうなものをお持ちであられる、我ら以上に化け物だよ。彼の使う魔剣でどれだけの死傷者が出たと思っているんだい?兵だけではないさ。我らの調べでは、民間人も少なからず犠牲になっている・・・・・もっとも、それはドルフの国民ではあるがね」
「嘘よ!愚者皇さんはそんなこと」
「では、これはなんだと思う?」
掲げて見せたのは、先ほどから口を付けていたワイングラスだ。月明かりの下、そこに注がれているのはワインではない、赤いどろりとした液体だ。
「よく見るがいい・・・・・首都の少し手前の街、クレインの酒場の娘だよ」
「ひっ!」
「見ろ。お前たちがあの街に立ち寄らなければ彼らは犠牲になることはなかったのだよ。彼にも“渇き”と呼ばれる衝動があるように、我らとて“渇き”がある。それを満たすには、新鮮な血が必要でね・・・・・」
「普段は邪神教の皆さんに献血してもらってる、ってことは内緒だ」
居並ぶ“化け物”どもの誰かが誰かに静かに囁く。頷き合う二人に、周囲から咎める視線が向けられた。
瞬間、繰り出された拳が少女の鳩尾にめり込んでいる。
うっ、と呼吸を詰まらせると、そのまま崩れ落ちた。
「今はこれでよい・・・・・そこ、私語は慎めよ」
どうやら主の耳にも届いていたようだ。頭を下げる同胞に、溜息をつく。
悲鳴が上がったのはそのときだ。
「オ、オルハ様、あれを!」
ワイングラスを置こうとした瞬間、オルハの耳に、裏返った悲鳴が届いた。咄嗟に身を捻った吸血鬼は、底に現れた影を見てほくそ笑む。
悲鳴と共に貴賓席に飛び込んできたのは、黒のタキシードを着た給仕の男だ。いや、飛び込むという表現は生やさしい。突っ込んできた、とでも形容しようか。
頭から壁に叩きつけられ、血と脳症が一面にぶちまけられる。つぶれた頭から覗くのは、破裂した脳と眼球の淡いピンクと白の肉片だ。
「ウォ、ウォーレン!?」
さらに続いたのは、まるで冗談のような光景だった。貴賓席脇の観客席の一抱えはある柱が、さらなる絶叫と共に立ち割られる。あたかも、ガラスのような切断面を見せて転がった石柱の傍らで、異様な剣を脇に寄せた長身の男が立ち上がった。
「・・・・・次はお前だ、吸血鬼」
間髪入れず黒い風と化した男は貴賓席へと飛び込んでくる。だがしかし、その動きは一瞬にして止められていた。
オルハが、少女の首に鉤爪を伸ばして押しつけていた。
「殺したいのか?」
問いには答えられない。蒼髪の青年はにやりと笑むと、背後に控える武装した同族以外の男たちに退去を命じた。
「娘を連れてここから離れろ。予定通りには・・・・・抵抗あらば殺してかまわん」
「予定通り、だと?」
「こちらの話だよ、愚者皇君」
聞きとがめた愚者皇に、オルハは軽く受け流した。
「ところで、君は完全に包囲されている・・・・・抵抗はお勧めできないがね」
「吸血鬼風情に遅れをとるとでも?」
「済まないが、その通りだ。手元の君の交戦記録によれば、我ら同族と戦ったことは一度もないそうだね?」
「・・・・・知ったことか」
「そうかね。まあ、少し話をしようじゃないか・・・・・」
そう言って鉤爪を戻すオルハに、心外だと言わんばかりに愚者皇は溜息をつく。
「化け物と話す気はないぞ吸血鬼」
「心外な言い方だね、その“吸血鬼”というのは。我らは長生種・・・・・君らは短生種なだけだろう?またその生活習慣もほとんど変わらない。ただ、我らは他人の赤血球を捕食せねば生きてはゆけない身体だ。可哀想とは思わないのかね?」
「思わないな、化け物はのたれ死ぬのがオチだろうよ」
「・・・・・そうかね。所詮、短生種にはこの考えは理解できないというわけか」
オルハは頷く。するりと、再び鉤爪を伸ばしたのはそのときだ。
「ああ、申し遅れた。私はオルハ・マルア・フォン・ウェーバー。薔薇十字騎士団、位階5=6、称号“フレイム・タン”」
ふっ、と笑みを浮かべると、後ろへ跳躍した。
「小生意気な短生種風情が!オルハ卿に対等な口をききおって!」
それまで優雅に座っていた民族衣装の婦人が、オペラグラスを放り捨てて立ち上がった。その繊細な指で禍々しい光を放っているのは、鋭く伸びた鉤爪だ。
「死にやっ!」
唸りを生じて繰り出された右手を、愚者皇は眼前にかざした剣で受けた。だが、淑女の唇は弦月に割れている。同じく鉤爪を伸ばした左手を、、反対側から時間差で振るっていたのだ。さしもの剣術の達人も、これは防げまい。
だが愚者皇の表情は変わらなかった。籠もった声を三発したとき、淑女の腹には拳大の風穴が空いている。
「・・・・・あ?」
一瞬の衝撃に彼女は己の身に何が起こったのか解する間もなかったに違いない。向こう側が見えるほどに穿たれた腹から血が溢れ始めるや、もんどりうってその場に倒れる。
そのときになってようやく、長生種たちは同胞の身に何が生じたかを悟った。
愚者皇の変化した右腕が、彼女の腹腔を貫いたのだ。彼の右腕には、肘関節までがびっしりと赤黒い血がこびりついている。
「何だ、あの腕は!?」
「し、信じられん、我ら長生種の身体を打ち破るなど・・・・・」
うろたえ騒ぐ同族の中、ただ静かに頷いて見せたオルハはすぐに命じた。
「私がやろう・・・・・オットー、フランツは残れ。残りはベーラを連れて街を出ろ。すぐに治療しろよ」
「「は!」」
オルハの声に従って、彼らは動いた。だが愚者皇は腹を押さえて倒れる彼女を無慈悲に踏みつけると、とどめを加えようと魔剣を振り上げる。
「させん!」
瞬間、愚者皇の身は宙に舞っていた。たっぷり十メートルは吹き飛んだ後、背後の壁に叩きつけられている。轟音と共に沈む愚者皇を睨み付けながら、
「“加速”だ。“加速”をすれば捕捉できん!」
いっとう、年かさの長生種が吼えた。
「娘の痛み、貴様に返してくれるわ!」
全身の神経系を異常興奮させ、普段の数十倍の反応速度を得る“加速”は、長生種最大の切り札だ。身体への負担が大きいために長時間は使えないが、たかが虫けら一匹、三秒とかかるまい。“加速”に入った老長生種は、立った今、起きあがろうとする無防備な頭上に向けて躍りかかった。肉食獣のような動きで、剥きだした牙を白いうなじに突き立て・・・・・
「なにっ!?」
虚しくかみ合った上下の牙が、耳障りな音を立てた。瞬前間で底にいたはずの男の姿がない。どこに消えた!?
「死ね」
耳元で囁かれた声に皺がが幾重も浮き出るほどに顔をひきつらせたとき、背後から突き出された魔剣は哀れな犠牲者の心臓を貫いている。
「それに、短生種を舐めすぎだ」
「む、虫ケラが・・・・・ッ!」
刃に心臓をもっていかれながらも、老長生種は最後の意地を見せた。
正面に抜けた刃を両手で固く掴み、抱きしめたのだ。
「オ、オルハ様、とどめを!」
叫んだときには、既に彼の命は消えている。だが瞬間的に収縮した筋肉は、老長生種の最後の執念そのもののように、刃を掴んで離さない。
「よくやった、オットー!」
はっとなった愚者皇が背後を振り仰いだとき、圧倒的な身軽さで跳躍したオルハが体勢を整えながら襲いかかってきている。
「クソッ!」
やむなく剣を手放した愚者皇は下半身を撓めると跳躍、瞬時に赤い髪の魔神と入れ替わった。
「僕が相手だよ、吸血鬼君」
「!」
一瞬の判断は、はたしてオルハにとって正解であったらしい。襲いかかる体勢はそのままで、鉤爪を虚空に向けて大上段に振り抜く。そのときに生じた遠心力で身体を小さく丸めて空中で前転。大幅な空気抵抗を受けて軌道修正をしたときには、最前まで彼のいた空間は赤い髪の男の魔術が襲っている。何もない虚空を穿った風の魔術は、今一人の従者、フランツの身体を無惨に切り刻み、数十もの肉片に変えていた。
猫のような体勢でしなやかに音もなく降り立つと、オルハは向かいに轟音とともに着地した愚者皇を眺め見た。
「なるほど。あれが魔神セプテリオスか・・・・・・ふむ、とりあえず初期目標は達成したが」
オルハの僅かに視線をずらした先、未だ立ったまま剣を掴んで離さぬ老長生種の果てた姿を見、その瞳は硬度を増した。
「同族の仇」
呟くと、眼前に迫り来る魔神を迎撃せんと背後の壁に跳躍する。壁面に降り立つと同時に既に四メートルとない距離に迫る愚者皇に、その手を身体の前に差し伸べるような仕草をしてみせる。薄い掌に浮かび上がったのは、林檎ほどの大きさの青白い光球だ。
「・・・・・」
長生種の口元が忌まわしい嗤笑を刻んだ。刹那、手首がしなやかに撓るや、弾丸にも匹敵する速度で光球が投じられる。
「ん?」
魔神はあえて避けようともしない。左手を伸ばすと、さも面白そうにそれを掴もうとする。
それが、命取りになった。
「!」
差しのばされた手に激突した瞬間、光球は爆発的な勢いで燃え上がった。
「しまっ・・・・・“火炎魔人”か!」
愚者皇の呻きに応じたように、再度、火球が唸りをあげた。
“火炎魔人”。背中に展開する薄羽根で飛翔能力を有する“妖精”や、発達した肺に水を取り入れ、電気分解によって酸素を作り出して水中を自由に動き回れる“魚人”など、特異能力を有する吸血鬼は数多い。だが、彼らの中でも“火炎魔人”ほど殺傷能力に優れた存在もまた珍しい。
「クソ、身体の消耗が激しすぎる・・・・・そういや、アイツ、左腕が使えないんだっけ」
真正面から飛来した火球を撓めた足で横飛びに跳躍してかわすと、セプテリオスは突進を開始した。火炎の正体がナパームである以上、火はすぐには消えない。つまり、時間が経てば立つほど、周囲を炎の壁に阻まれ、不利になっていくことは明白。短期決戦は正しい判断だ。
「少ししか保たないなら、その少しに賭けろってね」
上体を低くしたまま、狼のように地を這う動きで火球を翻弄しつつ、オルハに肉薄する。
「お前、いい加減死になよ」
くすりと笑むあどけない笑声とともに、音速にも達する突きを繰り出す。先ほど、女吸血鬼を屠ったのと同じ攻撃だ。
超接近戦・・・・・これなら炎は使えないだろ?
勝利を確信した笑みは、しかしその半瞬後、逆にオルハの笑みによってかき消された。
貫手の軌道を見切っていたらしい。オルハは上体を反らせてかわす。だがしかし、右肩の肉の一部と引き替えに、彼は火球の一撃を直撃させていた。
「しまっ・・・・・ッ!」
胸に押し当てられた手から生じたのはとびきりの火球だ。オルハに動かぬ左腕を掴まれていたのでは、避けようもなかった。
まるで炎が胸から吹き出しているような恰好のまま、長生種の剛力を乗せた掌底の直撃を喰らったセプテリオスは背後に吹き飛ばされる。地面に叩きつけられたとき、受け身を取れたことのみが唯一の救いだろう。受け身がなければ、彼の頭部は強打して頭部は弾け飛んでいただろうからだ。
「・・・・・状況の認識が甘いのは、そちらのようだったな」
右肩を押さえる手からは長生種の血が滲み出ていた。だがしかし、赤髪の魔神が支払った代償はあまりに大きい。
「意外にあっけなかったが、貴様はここで死んでもらう」
余裕をもって繰り出される火球に、セプテリオスが微かに顔を歪めた、そのとき。
「させんでござるよ」
現れた影は掌ほどのナイフを投擲。正確無比に火球を串刺しにしている。直撃を被った火球はその場で爆散し、ナパームの炎を辺りにまき散らした。
「貴様は・・・・・確か、拓ノ心とやらか」
燃え上がる炎の照り返しも凄まじく、オルハは斜め頭上・・・・・観客席を見上げた。
「拙者の名まで知っていようとは。名乗る手間が省けてなによりでござる」
観客席の柱の影から現れたのは見るからに異国の男だ。黒髪黒瞳・・・・・ヤマト民族の典型的な特徴をしている。腰に帯びた黒色の大小の棒のようなものは、恐らくなんらかの武器に違いない。
「その男とは一昨日の酒のよしみがあってな。ともども無事に返していただきたい。それが望みでござる」
「これは異な事を。到底ありえぬ話だ」
硬い視線を向けたまま、倒れたまま呻く愚者皇を蹴りつける。
「この者は既に同族を二名殺傷している。それを返せなど、無礼にもほどがあろう・・・・・それとも、貴国では同胞を助ける謂われはないというか?」
「いや、もっともな話でござる。なれば拙者、助太刀いたす所存にござれば」
浮かべている笑みを、一瞬で消し去った。
「拙者とて、成さねばならぬことがあるのでな」
呟くと共に、拓は白刃をすらりと抜き放つ。
「お覚悟召され」
言ったときには、既に拓の姿は石柱の脇にはない。石畳を蹴る軽やかな音が微かに響いたとき、唸りをあげた白刃はオルハの遙か頭上にあった。頭上からの諸手突き。今宵月が出ていなければ、おそらくはそのまま串刺しになっていたに違いない。
軽い舌打ちと共に影に反応したオルハは後ろへ軽いステップで突きを反らす。それと同時に伸ばした鉤爪で着地後の無防備な拓の背中を抉らんと横一文字に振り回す。だがしかし、それは虚しく影を穿っただけだ。
どこだ?
自然、オルハは見回す。
相手は短生種だ。魔術でも使わない限り落下体勢で新たな推力を得るなど不可能だ。ならば・・・・・
下か!
声なき声で叫んだときに、咄嗟に鉤爪を繰り出していなければ、そして同時に左手で火球を生み出していなければオルハの首は飛んでいたに違いない。恐ろしいほどに気配を消した拓の斬撃に気づいたのは半ば奇跡といってもよい。
首と引き替えに胸元に浅い傷を作ったものの、オルハは概ね無事だ。だがしかし、ナパームの炎に包まれた拓は・・・・・
「なにっ!?」
拓の前に、灰色の壁が立ちはだかった。
それが高速で旋回する刀の鞘だとオルハが悟ったときには、炎はことごとく防がれ地面にまき散らされていた。いや、そればかりではない。信じがたいスピードで回転する風車は、真っ直ぐにオルハめがけて駆けてきている!
「・・・・・ちっ、運のいいことだ」
掌に新たな光を宿して、オルハは今しも飛びかからんとする拓を睨み据えた。
「だが拓ノ心・・・・・君は甘いか?」
一声吼えるや、オルハの手が翻った。火球は、ちょうど彼の頭部めがけ旋回した白刃に正面から激突した。
「うおっ!」
飛び散った炎に、一瞬だけだが、拓の動きが止まる。その隙に、蒼髪の吸血鬼は勢いよく地面を蹴っていた。優雅とさえ言えるしなやかな動きで、侍に飛びかかる。
「ば、馬鹿な・・・・・!?」
だが、突撃された拓の口から零れたのは、鮮血ではない。
「拙者を踏み台にした!?」
驚愕の声が侍の口から零れたとき、その肩を蹴ってより高く飛翔したオルハは、体重のない物体のように宙高く舞い上がっていた。
「死ね、愚者皇!」
舞い降りるオルハの眼下で蠢いていたのは傷ついた愚者皇だ。既に魔神は去ったのか元の白髪戻った彼は、目前に迫る火球に為す術もなく転がっている。
「愚者皇!」
叫んだ拓が疾走して追いつき、その鞘の先でもって火球をかろうじて防いだとき、オルハは既に右の鉤爪を振りかぶっていた。
「もらった!」
振りかざされた爪が、拓ノ心を切り刻む・・・・・その刹那。
「そうはいかんでござる」
鋭い金属音が鳴り響く。
「さすがに、やる!」
返す左腕を打ち振るって今一度わざと太刀で受けさせた後、一気に背後に跳躍。間合いを大幅にとった。
いまので終わっていたはずなんだがな・・・・・!
さすがに息の荒いオルハもまた、度重なる“加速”の連続で消耗していた。対する拓はまだ無傷。身体の疲れもそうはないはずだ。
オルハの横合いから、聞き慣れた声が響いたのはそのときだった。
「下がりなさい、“フレイム・タン”」
「か、閣下・・・・・」
冷たい叱責の声に、思わず視線を彷徨わせた一同の前で、ぐにゃりと石壁が曲がった。分厚い石の壁があたかも苦悶するかのように歪んだかと思うと、それを水面のように割って、何かがその向こうから浮かび上がってくる・・・・・
「今晩は、ヤマトの侍殿。佳い夜ですね」
「・・・・・どちらかな、そなたは?」
変形を終えた石壁の前に立っていたのは、黒いスーツを着込んだ男だった。腰までもある黒髪の下、怜悧な顔には、知的だが、何処か見る者を不安にさせる微笑が張り付いている。
しかし、いったいどうやってやってきたというのだ?すでに最前までの静けさに戻った石壁の表面には、穴一つあいていないというのに。
「私ですか?私は彼の上司でしてね、彼の働きぶりを視察に来たのですが・・・・・なるほど。貴方ほどの方がいらしたのでは、本人の撤退が未だ完了していないことも頷ける」
「それは光栄な言い回しでござる。したが、それがしが剣を見られた以上は返すわけにもいかぬ。ここで果ててもらおう」
鋭い恫喝の声に、対するダークスーツの男は少しも臆することなく、まるで事務手続きでも行うかのような静けさだった。
「“フレイム・タン”、ここは退きなさい・・・・・ああ、あの坊やたちの相手は私がしますよ」
「下郎が!」
完全に無視された形になった拓は激昂し、白刃を脇に構えて突進した。
だが、炎を突進による風圧でなべて吹き飛ばしながら肉薄する拓を一瞥した男は、むしろ面倒くさげに指を鳴らしただけだった。
構わず突撃する拓。が、冷笑をもって男は出迎えた。
白刃は破壊の音響と共に男を襲っている。だが、白い軌跡は、獲物から拳一つ分ほどの距離をおいて、音をあげて弾かれている。
「なんと!」
電磁場の壁・・・・・“アスモダイの盾”に弾かれた刀の柄を、拓は手の中で回転させた。今度は真下からの刃が、床に接するぎりぎりのところを擦過しながら黒影に殺到する。これだけの強力なシールド展開には相当な魔力が必要だ。そう長時間耐えられるものではない。攻勢を続ければ、必ず破れるはずだ。
男がおもむろに両手を掲げたのはそのときだった。
「我は汝を召喚す、恐ろしき炎の王よ。敵意の天使よ・・・・・」
謳うがごとく呟いた男の手に、ペンタグラムが禍々しい輝きを滴らせ始めた。と同時に、コロッセウム中に嫌な空気が張りつめる。全身の毛が総毛立つような、不吉な熱気。
「無価値なる者よ悪なす者よ卑しき者よ邪悪なる者よ霊の空疎なる場所に住まう者よ、我が心は汝を通して世界をしらん」
だがそのときには、刀は鋭い軌跡でもって男の顔面に迫りつつあった。
「何のつもりか知らないが、仕留める!」
「汝自ら生じ、高揚されたる闇の王、我にその炎を貸し与えよ・・・・・来たれ、“ベリアルの矢”」
刹那生じた輝きに、拓の眼前が真っ白に漂白された。
「!?」
虚空に生じた炎熱の巨大な火球は、呆気なく拓の身体を吹き飛ばしていた。逆巻く爆風は玩具のようにその身体を翻弄しながら、背中から壁に叩きつける。そして、知った。
「ぐ、愚者皇!?」
火球と自分との間に、あの生身の人間なら死に達する怪我を押して愚者皇が割り込んだのだ。
焦げ臭い空気の向こう、床に墜ちたのは奇妙なシルエットだ。背中からの激突の衝撃に呼吸することが困難になりつつも、拓はその光景に目を瞠った。
微かに痙攣する愚者皇の頭からは、大量の鮮血が床に血だまりを作り始めている。
「ああ、あまり彼を動かさない方がよろしいでしょう。“ベリアルの矢”・・・・・私の電磁加速砲は火炎系魔術の最高位に当たるものです。直撃を受けて、原形をとどめているのが不思議なくらいだ」
静かに後ろに下がりながら、男は続けた。
「さて、我が主から私が受けた指示は二つございます」
うずくまる二人の男に向けた男の口調に誇る色はなかった。
「まず一つは愚者皇卿の力量を計ること。そしてもう一つは・・・・・おわかりですね」
血に汚れた頭が微かに持ち上がった。大きく抉られた背中からこぼれ落ちたのは、赤い宝石だ。
「封印していた魔神を、こちらの都合で返していただくことになりましてね。そこで、そのセプテリオスの石はお引き取りにあがった次第でして」
直後、宝石は真下に吸い込まれるようにして消えてゆく。次にそれが現れたときには、既に男の掌の上だった。
「アリシア嬢は軟禁させていただきます。もし返してほしくば・・・・・ヴィエナにいらっしゃるとよろしいでしょう」
「貴殿・・・・・名くらい、名乗ったらどうでござるか?」
「ああ、これは失礼をば」
恭しく胸に手を当てた男は、深く一礼した。
「我が名はケンプファー。イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー。薔薇十字騎士団、位階9=2、称号“機械仕掛けの魔術師”・・・・・あの方にお仕えする忠実な下僕にございます」
言い終えると、ケンプファーは再び一礼する。
「では、今宵はこれにて。素敵な夜を」
夜の道を一人歩くケンプファーは、先ほどの邂逅を思い出しては報告をどうすべきかと頭を使っていた。そんなとき、ふと視線をあげる。
「にしても佳い月だな・・・・・」
それきり何事もなかったように、ケンプファーは頭上を仰いだ。南天したばかりの大きな満月が、彼を柔らかな、そして冷たい光で出迎える。
きっと、世界が終わる夜もこんな綺麗な夜に違いない。そしてそれは、少しずつ近づいてきている。
「・・・・・本当に佳い夜だ」
細葉巻を路地に放った“魔術師”は、たなびく髪をそのままに、再び暗闇の道を歩き始めた。