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第40話:生贄の羊 中

作:ファンファンさん


-From 39-
愚者皇が深い眠りから目覚めたとき、視界を埋め尽くしていたのは分厚い掌だった。
「よお。お目覚めかい?」
声と共に額に置かれたのはひやりと冷たいものだった。どうやらまた自分は寝てしまっていたらしい。その冷たい感触で、頭が一瞬で覚醒する。
「・・・・・なんだ?」
手を伸ばしてみれば、それは水で絞ったタオルらしい。疑問に思ったが、それはすぐに解けた。自分の頬が燃えるように熱いのだ。
「飲み過ぎなんだよ、朝から。あの後お前、急に倒れやがってよお。しかも頭打って。ありゃあ盛大な音だったぜ」
からかうような笑みと共に、レオンはするりと手を伸ばす。ずれたタオルを、この男にしては器用に直すと、再び額に乗せる。
「お、おい、俺はだいじょ・・・・・くぅっ!?」
起きあがろうと試みた身体は、僅かに一秒ほど枕から頭を離れさせるに止まっていた。
起きあがる力がないわけではない。だがしかし、頭に急激な引力がかかったような感覚と頭痛に襲われ、起きるどころの話ではなかった。
「ほれほれ。酔っぱらいは寝てな」
大きな溜息をついたレオンは、大仰な仕草で椅子に座る。
「ま、ここはお前さんも観念して静養に専念するこった。なあに、ほんの半日も寝てりゃ、そんな頭痛はすぐに治る」
「・・・・・すまない。しばらくは動けない」
「かまわねえよ。こちとら好きでついてきてんだしな」
「アリシアは?」
「別室を借りた。今はそっちで寝てるだろ。お前さんに風邪をうつしたくないんだとさ。ちなみに部屋はこの部屋の向かい」
「・・・・・そうか」
普段の白い顔が強かに酩酊したか赤く染まった愚者皇は傷口が痛むのか片腕を押さえて口を噤む。
「で?その傷のことなんだが・・・・・運が良かったな。あと少し深かったら、骨までやられていた。そんなに手強かったのか、あの変質者は?」
「まあな」
小さな舌打ちとともに言い捨てた顔は、プライドを傷つけられたか憮然としていた。
「ま、上には上がいるってこった」
「俺はまだ認めていない・・・・・ッ!」
反射的に頭を押さえた愚者皇を、レオンはさらに笑い飛ばした。
「ったく、世話が焼ける・・・・・さて、と」
浅黒の巨漢は椅子から立ち上がった。
「んじゃ、ちょっくらメシ食ってくるぜ。お前とアリシアの看病で俺様はもう腹が減ってしょうがねえ」
「あ、ああ・・・・・俺はもう少し寝るとしよう」
「そうしてな、酔っぱらい」
くつくつと笑うと、レオンはさっさと部屋を出ていった。階段を下りる大きな足音が、地面を通して愚者皇の寝る部屋まで聞こえてくる。
「もう少し静かに降りろよな・・・・・」
頭に響く鈍痛を耐えながら、愚者皇は呟いた。
痛てぇ・・・・・
心で喋るときですら幻覚か現実か痛みを伴う今の状態には正直うんざりだ。金輪際酒は飲まないと神に誓う。
神?
誰だろうか。
自分で考えた問いに答えがでず、つい笑ってしまう。
「愚かな・・・・・」
寝返りをうつと、また足音が廊下から聞こえてきていた。レオンではないだろう。他の宿泊客だろうか・・・・・
小さなノック音。
二度だ。
誰だろう・・・・・またあの主人だろうか?
酷く痛む腕と頭痛を堪えながら、文字通り身を引きずる思いで扉まで辿り着いた。
常に最悪の状況は自分なりに想定している。自分は脱走者で、いつ追跡者が現れるか、明日も知れぬ身だ。
だがしかし、愚者皇の推測が、最も不幸な形で証明されることになったのはその直後のことだった。
「失礼する」
それは主人の声でも、レオンの野太い声でもない。ましてあの拓ノ心でも。聞き覚えのない、若い声だった。
直後、扉の脇の壁を蹴破って現れたのは、目深にフードをおろした長身の男だ。その唇の端には、犬歯にしてはやけに鋭く長いものが覗いている。
ばきばき、と生理的な悪寒を催す音とともに現れたのは、ゆうに三十センチはあろうかという鋭い鉤爪だ。
このとき、反射的に自ら体勢を崩して倒れていなければ、愚者皇の頭は今しも身代わりとなった樫の扉のように血煙をあげて吹っ飛んでいたに違いない。ボクサーのフックのように横に旋回した鉤爪は、半瞬前まで愚者皇のいた空間を抉っている。
「チッ」
小さな舌打ちと共に召喚させたトゥレイドファングを右手に、愚者皇は身体をバネのようにしならせて立ち上がった。
「!」
瞬間的に愚者皇を襲った目眩を、目の前の敵手は見逃さない。
手打ちに縦一閃に振るわれたトゥレイドファングを人間にはあり得ぬ反射速度で避けると、床を蹴って真横に飛翔。“壁面”に降り立った若者の牙がかっと剥かれた。猫のようなしなやかさで全身をたわめると、壁を崩すほどの脚力で跳躍。男からすれば愚者皇の右側から、愚者皇からでは左側へと襲いかかった。
「ツゥッ!」
打ち振るわれた鉤爪は、左腕の痛みで反応の遅れた愚者皇の左足を襲っていた。そこでもし、愚者皇が踏みとどまっていれば左足は太股のところで輪切りにされていたに違いない。
前転して一旦距離をおく愚者皇だが、状況ははっきりいって悪い。
こんな街中で魔神を出すわけにはいかない。かといってこのままでは・・・・・!
相手は愚者皇を休ませる気など持ち合わせてはいないらしい。フェイントを織り交ぜた鉤爪による攻撃は左腕の損耗を庇う愚者皇に疲れを強いる戦い方だ。縦・横と自在に振り回す男は、どこか楽しげに口元が弦月に歪む。
やられる!
そう思った、まさにそのときだ。
「な、なんですか、この騒ぎは!?」
声がしたほうを振り向くと、現れたのは例の宿の主人だった。抜剣した愚者皇と、対峙する男の姿に悲鳴を上げて尻餅をつく。
「逃げろ!殺されるぞ!」
愚者皇は主人に敵を近づけまいと前に出る。
だが男は、意外にもあっさりと後ろへ後退した。その先には大通りに面した窓がある。
「次はない」
言い捨てると、男は反転。鉤爪を元に戻しながら跳躍。窓ガラスを突き破りながら視界から消えた。
窓際まで愚者皇が達したときには、大通りからこちらを見上げて指を指す人々のざわめき以外、不審な人物を見かけることはできなかった。
「・・・・・クッ」
トゥレイドファングを送還したとき、ふっと力が抜けて片膝をついた。鉤爪にやられた左太股がぱっくりと桃色の口を開け、大量の出血で服がどす黒く変色してしまっている。
「だ、大丈夫ですか!?」
主人が駆け寄ってくるが、手だけでそれを制すると、数分前までレオンの座っていた椅子に腰を落とし、何度も深呼吸を繰り返した。
「あの・・・・・」
「・・・・・なんだ?」
戦いの後だ。自然、険しくなってしまう表情を敢えて直そうとせず、愚者皇は黙らせようと睨み付けた。
「向こうの、お連れ様の部屋も荒らされておりますが・・・・・よろしいんですか?」
「連れ?拓ノ心なら、連れではない」
「いえ、宿帳には、アリシア様と・・・・・」
「アリシア!?」
弾かれたように部屋を飛び出た愚者皇が目にしたのは、向かいの部屋の、無惨な姿だ。
彼女の荷物らしい荷物は全てなくなっている。それに最前まで寝ていたであろう彼女の姿も。
「どういうことだ・・・・・なぜアリシアを・・・・・?」
我知らず、一人ごちていた。



「なるほどな・・・・・」
レオンはあらましを聞いて発した言葉は、意外にも悟りきった言い方だ。
「仕方ねえ、としか言いようがねえな。お前さんはまあ、はっきり言えば日陰者だ。日の当たるところにゃ出られやしねえ。実際、アリシアがいままで無事だったってこと自体が奇跡みてえなもんだったからな」
「分かったような口をきくなよ・・・・・!」
愚者皇は治療を受けたばかりの足をものともせずに立ち上がった。
「お前がいれば、アリシアはさらわれずに済んだんだぞ!それを、仕方ないだと!?」
「ああ。俺が悪いとかそういう問題じゃない。お前さんが日陰者だから、アリシアはさらわれたんだ。他にどういう理由があるってんだ?あの子は普通の子だ。前科があるわけでもなく、ことさら変なわけでもねえからな」
「・・・・・クソッ!わかってるさ、そんなこと!」
相手の言いようが的を射ていたことが、なによりも腹立たしかった。自分の立場をよく考えず、レオンに当たったことは詫びよう。だがしかし、だからといって・・・・・!
「俺は、仕方ないで済ますつもりはない!」
「わかってる。だから今は休め・・・・・どうもお前さんは、アリシアが関わるとロクでもねえ男になるな。手がつけらんねえ。頭に血が昇りすぎてらあ」
「・・・・・うるさい」
ふてくされたように呟く愚者皇を、まだまだガキだな、とレオンは思う。
「だからこれを見落としたんだ・・・・・そいつ、もともとお前さんに用があったらしい」
レオンが懐から出したのは、一通の手紙だ。
「なに?それをどこで・・・・・」
「アリシアの部屋だよ。ベッドの上にあった・・・・・もっとも、こんなお前じゃ、見落とすのも無理はねえけどな」
愚者皇に手紙を渡すレオンの手は、やけに優しかった。
「・・・・・憎まれ口はもういい。手がかりがあるなら、それに賭けるしかない」
手紙を広げる愚者皇の手は震えていた。
まるで書き殴ったような文字だ。それもまだ乾ききっていない、ぬるりとした赤い液体。血だ。

AM2:00、コロッセウムにて待つ

脇には、真っ赤な逆十字が描かれていた。

-To 生贄の羊 下-

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