作:ファンファンさん
青黒い夕闇の帳が、巨大な廃墟をこの世にあらざる影像へと変貌させつつある。
風が冷たくなり始めた無人の街路の只中で、タッカンはその状況に思わず息を飲んでいた。
「これは・・・・・」
多くから眺めた時には乳白色の岩肌を思わせた壁を埋め尽くすのは、無数の天使や聖人たちの壁画と彫像だ。さらにその上、八十八もの鐘を収める十七本の鐘塔は、まもなく闇に包まれるであろう薄暮の空を貫いてその威容を晒している。
そしてそれら鐘塔群が円形に集まった中心に、宇宙船を思わせる巨大な中央塔・・・・・通称“御子の塔”が、全長百七十メートルという壮大さをもって地上を睥睨していた。
アルメリア大聖堂と呼称されるそれは、そのあまりの異教的な概観と規模の壮大さから、教皇庁にさえ放棄された巨大建築物だ。放棄された後は市の管理化にあったが、それも今や蝙蝠の巣と化して久しい。
「大きいなあ・・・・・さあて、どこからお邪魔すればいいんですかね?」
あちこちと入り口を探して歩き回っていたタッカンの足が、不意に止まった。
地面に敷かれている白砂に、いくつもの馬蹄痕が見受けられたのだ。よく耳を澄ませば、ここのちょうど反対側から馬の嘶く声がいくつも聞こえてくる。
「先客がいるのかな・・・・・うん?」
ふと、タッカンの目が細まった。
白砂が続く道の向こう、荒れ果てた庭の中ほどに人間が寝ているのだ。
「もしもおし!そこのあなた、そんなとこで寝ていると風邪をひきますよお!」
浮浪者でも迷い込んでいるのだろうか?神父の立場として、放っておいては後味が悪いだろう。
やれやれと溜息をつきながら、タッカンは寝ている人物に近付いていく。脇に来たところで肩膝をつき、肩を揺すろうと手を伸ばした。
「あなた、聞いているんですか?こんなところで寝ていて・・・・・なっ!?」
暗闇で人間の周囲がまったく見えなかったことが恨めしい。
「これは・・・・・血!?それに、彼は・・・・・」
肩に触った時、いやにべっとりとした感触が手に伝わったものだと思った瞬間、タッカンは息を飲みながら高鳴る鼓動を押さえつける。
「遺体はウィレム?ということは、どうにかして逃げた・・・・・いったいどうやって?」
灰色の軍用外套を纏った中年男・・・・・身間違えようも無い。自分の追跡対象、ウィレムだ。血に染まった顔は恐怖に歪み、赤黒い口腔は無音の絶叫を放っている。だが、その腹がごっそりと抉られているのは何だ?断じて通常の殺人、もしくは落下の衝撃によるものではない。
「上か・・・・・!」
タッカンは入り口を蹴り開けた。既に脇に吊るしていた旧式回転拳銃は抜かれている。
薄暗い屋内。放物線を描くアーチが連続する廊下に滞留する空気に、濃密な血臭が立ち込めていた。壁際の所々にあるのは、真新しい血痕だ。おびただしい血が、あちこちに飛び交っていたが、なぜか死体は外のウィレム以外一つも無い。しかも人気の無い堂内は、恐ろしいまでの静寂に包まれている。
「・・・・・」
この聖堂が廃棄されて既に久しい。にもかかわらず、壁際の松明は真新しい薪がくべられているのは?そして、回廊の奥にまで続く松明が、途中の螺旋階段で終わっているのは何故だろう?
「・・・・・昇ってこいとおっしゃる?」
しばしの逡巡のあと、タッカンは階段に足をのせた。彼の革靴の音だけが、静かな堂内に乾いた音を響かせていた。
階段を登りきるまでに十分とかかってはいまい。
だがその時間に、いったいどれほどの距離を移動したのだろう。階段の終わりにある円形の展望用ドームのような空間の各所に配置されている窓から見下ろせば、地上はおろか、あれだけ高くそびえていた十八本の尖塔のうち、十七本までが遥か眼下に見えた。
「なるほど、ここは中央塔の頂上・・・・・ですか」
さっきの死体はここから落とされたのだろうか?ここの位置からでは、全方位を全て見渡す事は不可能だ。
不気味に漂う闇と静かさに慎重に気を配りながら、タッカンはホールに一歩を踏み出して・・・・・硬直した。
目の前に男がいた。ウィレム同様、灰色の軍用外套を身に纏った屈強そうな大柄の男だ。サーベルを一振り手にしているところを見れば、決して一般市民ではない。だがそんな男の姿形など、今、彼のいる場所の異常さに比べれば、どうでもいい。
男は、空中回廊から五メートルは向こうというところに“浮かんで”いた。
「!」
「か・・・・・はっ・・・・・」
男はタッカンの存在に気がついたらしい。限界まで見開かれた目がこちらを向いた。
「た、たす・・・・・たしゅけ・・・・・」
まるで搾り出すような、それでいて老人のような枯れた声だった。
助けを求めているようだが、こぼれた声は既に言葉の羅列になっていない。
「た、たす・・・・・」
それでもなお、巨漢は助けを求めようとしたが・・・・・
ぅぇあっ!
異様な湿った音と共に、眼球がぐるりと白目を向いた。身体が、電流でも通されたかのように激しく痙攣する。そして次の瞬間、逞しい身体は、捨てられた玩具のようにその場から落下。視界から消えうせた。
「・・・・・!?」
咄嗟のことに声が出せない。
そして、巨漢を死に追いやったものが、闇に浮き出した。
その形からはクラゲを思い出させる。三メートルはあろうかという傘の中に、人間の身体の一部だろう肉が、ぼんやりと見える。中央にある無数の嘴の群れのようなものが口だろう。ときおり痙攣のように開いては、大量の血液を撒き散らしていた。
「な、なんです、こいつは!?」
「ジルフィーデ・・・・・先日、私が洒落で作った人造魔神です」
静かに答えたのは、闇を纏ったような男だった。
「一応の不可視迷彩を施すことには成功したのですが、餌付けの度に醜い姿をお見せしてしまうようでは人前に出せません・・・・・こんばんは、アベル・ナイトロード神父。いえ、タッカン神父様」
タイミングを完璧に計ったように、男の指が打たれると同時に一斉に松明に火が灯される。その光は展望ホールに聳える巨大なパイプオルガンとその前に腰を下ろしていた人影を白く、そして黒く照らし出した。
「あ、あなたはレストランのときの・・・・・」
「またお会いしましたね。せっかくのお招きに応じていただきながら、少々散らかっていて申し訳ございません」
腰までもある黒髪の下で、レストランの男は氷のような静かな微笑を浮かべた。
「実は、私のクライアントが一方的に関係を破棄しましてきましてね。あげくに、こういった連中を送り込んでくる始末・・・・・もっとも、そのクライアント、ウィレム・ツァイには既に地面とキスしていただいていますが」
「・・・・・・!?」
タッカンの顔からは狼狽の感情が拭ったように姿を消し、代わりに鋭い緊張を身に纏う。
本能的に跳ね上がった銃口は、男の眉間を性格にポイントしていた。
「動かないでください!両手は頭の上に!あなたはこの教会における殺人・公共物破損で逮捕します。武器を捨てて投降されることを勧告します!えっと・・・・・」
鋭い語調にようやくその緊張が伝わったのだろうか?だが、相変わらず穏やかに、男は腰を折った。
「ケンプファー。イザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー。薔薇十字騎士団、位階9=2、称号“機械仕掛けの魔術師”・・・・・ただの“魔術師”でもかまいませんよ」
微苦笑を浮かべたまま、“魔術師”は両手を掲げた。観念したのか、抗う様子もない。
だがタッカンは、ポイントしたまま微動だにしなかった。頭上の怪物のこともあるが、それ以上にこの男は危険だ・・・・・頭の中で、本能とも呼ぶべきものが鋭い警鐘を鳴らしている。
「さっき、ウィレムをクライアントとおっしゃっていましたね?なら、デパートの倒壊事故・・・・・いえ、その前の事故のことも、もしかしたら貴方の仕業では?」
「私の仕業、というのは正確ではありませんね。障害排除を依頼してきたのはウィレムです。わたくしども“騎士団”は、その材料と知識をお貸ししただけの事・・・・・これもビジネスです」
「犯罪がビジネス?あなた方は、金目的で犯罪行為を行っていると!?」
「金が代価とは限りませんよ」
高い知性と教養を併せ持つような男の穏やかな声は耳に心地よい。だがしかし、その内容は穏やかざるものだ。
「我が“騎士団”は、この世界の有り様にご不満をお持ちの方々を、ささやかながらお手伝いさせていただいております」
静かな口調だが、かえってそれは不気味な存在だった。
「では次です・・・・・なぜ、私をここに呼んだりしたんです?まるで私をここへ誘うような、あの口ぶりは?」
「いえ。そうしてみるのも一興、と我らが主からの伝言でございます。タッカン神父」
「主?私を知る方ですね?」
「さて。そのあたりはご想像にお任せしますよ」
思わせぶりな口ぶりはそのままで、男は続けた。
「どうしました?私を逮捕するのではないのですか?」
相手の方が弁舌では一枚も二枚も上手だ・・・・・感じ取ったタッカンは、とりあえず話を終わらせる事にした。
「・・・・・今は逮捕します。凶器についても詳しくは後で聞かせていただきます。よろしいですね?」
「凶器ですか?それなら、説明するよりお見せするほうが早い・・・・・これですよ」
大音響が轟いた・・・・・パイプオルガンの鍵盤にケンプファーが掌を叩きつけたのだ。長い指が鍵盤を滑ると、美しい、だがどこか魔性のメロディが奏でられる。
「モーツァルト、作品番号K-六二〇、“魔笛”・・・・・この静かな夜に相応しい曲だ」
夜の静寂に反響する数重もの悪霊の嘆き・・・・・オルガンの鍵盤に連動して、周囲の鐘塔から響き渡ったのは、低い、高い、鐘の音だ。聞く者を心から揺さぶる重い振動が、夜の帳を震わせる。
だが、確かに気味は悪いが、所詮ただの音楽だ。倒壊事故の何の関係が・・・・・
「すぐにわかりますよ」
タッカンの心のうちを見透かしたように、イザークは言う。
「それまで彼と少し運動でもなさっててください」
「え?彼って・・・・・っ!」
反射的に頭を逸らせていなければ、タッカンの頭部はざくろのようにはじけていたに違いない。その勢いのまま横に飛んで転がり、壁際でようやく体勢を立て直す。
ジルフィーデは身体を震わせながらゆっくりと向きを変えた。傘の部分は真っ赤に染まり、その下の触手を旋回させはじめる。それらは上下左右、一定距離を取って大きく広がると、統一された意思の元に標的めがけて襲いかかった。
「ふッ!」
腹から搾り出す鋭い気合と共に銃口を上げたときには、トリガーを引き絞っていた。連続発射された銃弾が風をまき、六本の触手を食いちぎる。
痛みを感じたのかジルフィーデがたじろいだその一瞬の隙をついて弾層を取り替え再び構えようとしたところで、それがかなわぬことを知った。
「!」
目の前に壁が迫っていた。ジルフィーデがその身体に似合わぬ素早さで突進をしかけたのだ。
弾き飛ばされたタッカンはそのまま壁に叩きつけられ、その数瞬後にはジルフィーデがその巨体を生かして押し込む。無数の触手をタッカンの身体に合わせて壁際に突き刺し、絶対に逃がさぬ構えだ。
「こ、こいつ!」
肋骨が軋み出す痛みに脳髄が焼けるような感覚に陥った。さらにぐいぐいと押し込まれる痛みに、そして肺から空気が強制的に排出される苦しさに気が遠くなりかける。
それを見届けたようにジルフィーデが動いた。牙を剥いた嘴が、もはや身動き叶わぬタッカンの首元に降りてゆく・・・・・
ギィィィィィッ!
刹那、耳を打ったのは神父の悲鳴ではなかった。唯一自由になる右腕にあった拳銃を、口腔に向けて全弾を撃ち放ったのだ。
「やった・・・・・ぐうっ!」
だが絶妙のタイミングで射撃した神父にも、解放される喜びを挙げている時間は無かった。絶命したジルフィーデの身体がよしかかってくる。咄嗟に脱出しようと動いたが、ゼラチン質の身体相手では不可能だった。
湿った音が連続して鳴り響いた時、タッカンの右半身はその下敷きになっていた。
「大丈夫ですか、神父様?」
オルガンの前のイザークが静かに尋ねた時も、タッカンは答えられなかった。激痛を通り越して、意識すら飛びかねない状況だったからだ。
・・・・まずい
こちらは既に満身創痍。肝心の敵は無傷だ。ケンプファーが伴奏を止めないのも、その余裕の表れだろう。
「・・・・・待てよ」
身体を動かす事はかなわないタッカンは、必死で頭を働かせていた。そして、その頭を何かがかすめたのだ。気になっていた。地震でもなく、まして砲撃でもなく、魔術でもない方法で狙う建物を壊す方法が。いったいどうすれば。目に見えない何かが、耳にも・・・・・耳にも!?
「そうか・・・・・そういうことだったのか!」
鐘塔群を見下ろしたタッカンは、愕然とうめいた。
聖堂を囲む形で鐘塔に収められていた八十八個の鐘は、いかな仕掛けによるものか各鍵盤に応じて鳴らすことができ、ピアノのように演奏する事が可能だ。そしてこの聖堂の作り自体、その鐘の音を増幅させる設計をもとからしている。
つまり、このアルメリア大聖堂の鐘塔群とは、それ自体が巨大な楽器・・・・・耳で聞く建物なのだ。
「おや、その表情・・・・・どうやらお気づきになられましたか」
振り返るイザークは微笑を張り付かせたまま、己の指の動きを止めようともしない。
「さあ、そろそろですよ。ああ、ちなみに、今現在の私の弾く曲はウィレム宅が焦点となるようになっています・・・・・いざというときのため、調律しておいて正解でした」
「なっ・・・・・いま、あそこには・・・・・!」
タッカンはうめいた。昼どきのファンの言うとおりならば、彼の性格上今頃から捜索に入っているはずだ。ウィレムの屋敷は臭い・・・・・そう言っていた彼の顔を、思い浮かべる。
「いけません、そこだけは!」
「おや、なぜですか?」
ケンプファーは意味ありげな笑みを浮かべると言葉を続けた。
「そう、昼間のご友人も、確かウィレムの屋敷に向かわれるとおっしゃっていましたね」
さらに鋭い伴奏が続く。やがてクライマックスに入ろうという、そのとき。
闇の向こうから、低い音が聞こえてきた。
「さあ、その耳でお聞きください。これこそオペレーション“沈黙の声”の完成でございます」
爆弾?違う。なにか、巨大な質量が連続して崩れる、そんな音だ。
「あ、ああ・・・・・」
市街の東、住宅街と繁華街が集中する一角に、月明かりに照らされて白い土煙が上がっていた。その煙の中、ここまで聞こえてくるのは人々の悲鳴だ。
「物質は固有の振動数を持っています。いわゆる低周波・・・・・を利用した、一種の音響兵器ともいえるものですよ」
淡々と語る“魔術師”の声は静かだった。
たった今、友の命を奪ってのけた虐殺者とは思えぬほどに。
「ここの鐘に組み込まれた“沈黙の声”は、共振を強制的に起こす事により広範囲の目標の建築物を崩壊に導きます。まだ試作段階なのですが、それなりの効果はあったようですね」
「あ・・・・・うあ・・・・・」
丁寧すぎる説明も、タッカンの耳には届いていなかった。遥か向こうに生じた変化は、まだ終わっていなかったからだ。
ウィレムの屋敷の倒壊に誘われたように、その両隣の建物がゆっくりと崩れ始めた。そしてさらにその周囲の建物も・・・・・
崩れる。崩れてゆく。
水面に起こした波紋のように、白煙は夜の町全体へと広がっていった。市場も目抜き通りも、貧民街も瀟洒な邸宅も。何万もの命、幾年もの歳月を重ねてきた街並みが、舞う砂煙の下、低く唸る轟音とともに崩れ去ってゆく。それは幻想的な世界を映し出したかのようであり、残酷な現実の世界だった。
「今宵の演奏はいかがでしたか、神父様?お耳汚しでなければよろしいのですが・・・・・」
ぅあああああああああああああああああっ!
“魔術師”の慇懃な言葉に応じたのは、世界に絶望した絶叫と、嵐のような血煙だ。
タッカンに覆い被さっていたジルフィーデの巨体が、跡形も無く消し飛ぶ。その赤い煙の中から、低く唸るような声が微かに“魔術師”の耳朶を打った。
【ナノマシン“クルースニク02”、四十パーセント限定起動・・・・・承認】
次の瞬間、ケンプファーの頭上に振り下ろされたのは夜よりも暗い刃だ。
「よくも・・・・・よくも・・・・・!」
柄の両端に大振りの刃を構えた長大な鎌を、震える声とともに押し込む神父の瞳は、ワインのように赤い。
「ご不快になられたのであれば申し訳ございません・・・・・ですが、これもビジネスでして」
怒りに歪むタッカンの顔を見上げて、“魔術師”はあくまで慇懃に応えた。彼は両手をポケットに入れたまま静かに立っているだけだ。だが、不可視の壁があるかのように、タッカンの大鎌はケンプファーの頭上で停止している。
「次のクライアントが“沈黙の声”の実施テストを是非したいとおっしゃっていましてね。当方としても断われなかった次第です」
ぎりぎりと軋る犬歯を鳴らすタッカンは、先ほどまでの能天気な神父の姿は影を潜めていた。いや、あるいは別人であったかもしれない。
「そんなことのために、彼を!」
「あくまでビジネスです」
ぎりっと、刃が僅かに下がった。
信じがたいパワーだ。ケンプファーの周囲に張り巡らされたシールド“アスモダイの盾”の絶対的な防壁を切り崩しながら、漆黒の凶器は脳天へと距離を縮めていく。
だが、ケンプファーはあくまで静かだった。
「・・・・・そうやって、すぐに君は世界を敵に回したがる」
「・・・・・!?」
怪物の動きが凍りついたように停止した。
“そうやって、すぐに君は世界を敵に回したがる”
全てが敵意に満ちていると信じていたこの世界で、自分に許されたたった二人の同胞たち。
それは、いつ聞いた言葉だったか。
だがあれはずっと昔の話だ。もう手の届かないあの頃に聞いた言葉だ!
「そ、その言葉を、どこで!?」
魔物の声がうわずった。同時に、それまで大鎌に込められていた凄まじい力が嘘のように消える。
「答えろ!その言葉を、誰に聞いた!」
「またお会いしましょう、ナイトロード神父・・・・・いえ、タッカン様」
「待て!」
完璧な一礼を施した“魔術師”の影が揺らぐ。一瞬にして消失した喪服の影を、影のあったところを、タッカンは我に返った瞳で見つめていた。
「嘘だ・・・・・」
脱力したタッカンの膝が、石畳に落ちた。
既にあたりには人気が無い。いや、このホールばかりか周囲の建物からも、一瞬のうちに死が包み込んだ。
「俺は・・・・・俺は、また・・・・・!」
オルガンの音は、もう聞こえなかった。