作:ファンファンさん
黄昏の森。旧アラニア王国東部に広がる森を、遠方から来る者たちはそう呼んでいた。
幅広く広がった枝葉が太陽光を遮り、地面にはほとんど紫外線は届かない。ただ、木の葉を微かに貫光する光のみが湿った大地を照らしていた。おかげで太陽が天高く昇る昼間ですら、そこは夕暮れ時のような幻想の風景を作り出していた。
“黄昏の森”だった。
そしてそこは、“彼ら”にとっては昼間でも歩ける、恰好の狩猟場でもある。
アラニア王国の、それも東部に住む者たちはその実態は知っている。だから近隣の者たちは黄昏の森を、またの名でこう呼び、迷いの森として畏れた。
即ち、“夜の眷属どもの森”と。
その森の中を、命知らずの男女が歩いていた。男はここを行き来し馴れたような自然な足運びでためらわず歩を進めるが、同行者の女はそうもいかないらしい。馴れぬ足場や時折目の前を通り過ぎる虫などに驚いては、いちいち叫び声を挙げている。
「どうだ、美しいだろう?これを君に見てもらいたかった」
男は歩みを止め、女を誘って上方を向く。
そこには天界もかくやと思えるほど、黄金色に輝く木の葉が視界一面に並んでいた。
だが女は、男の反応よりも遙かに自然に、“人間”的に生理的嫌悪感が優先されていた。
「ねえ、早く出ようよ。気味悪い動物がたくさんいる・・・・・ほら、あそこだって骨みたいなのまで」
女が指さした先、確かに、骨の一部のような白いものが転がっていた。いや、よく目を凝らせば、落ち葉の積もる地面にはそのようなものが散乱していると言っても過言ではない。
だが男は少しも頓着せずに続けた。
「私はこの場所が好きでね。よく通るんだ・・・・・こうやって上を向くのが、とても楽しみなのだよ」
青年の蒼い髪が、通り過ぎる風で微かになびく。
「確かに綺麗だけど・・・・・でも、ここって確か、例の化け物が出るって森でしょ?何人も殺されたっていう・・・・・」
怯えた様子は少しも変わりない。むしろエスカレートしているようにも男の耳に聞こえた。
「大丈夫だよ。私と共に居る限り、君が他の化け物に襲われるなんてことはないのさ」
「そうよね。あなたと居れば・・・・・」
どこか安心しかけた女が、想う青年の横顔をちらりと見た。
青年は嗤っていた。
笑みを浮かべているのでは決してない。まるで生殺与奪を握った暴君のような、獲物に対してどこか嘲弄を浮かべている・・・・・そんな笑みだ。
「ど、どうしたの?あなたらしくない・・・・・オルハ?」
呼びかけに応答しない青年を、女は不審に思ったらしい。
もともと何か変だった。知り合ったときから昼間は仕事があるといって夜しか遊ばない。明け方には帰り、また遊ぶのは次の夜。そして初めてまともに街の外へ出ると言ったら、人々が“夜の眷属どもの森”と呼んで畏れるこの森へ誘ったこと。
まさか・・・・・ね・・・・・
女の頭のなかに一つの仮説が浮かぶが、他愛ない戯れ言だとすぐにうち消す。
「君は本当に運がいい」
青年・・・・・オルハは嗤う。向き直ったとき、その笑みを消そうとすらしなかった。
「どうしたの?」
今一度呼びかける女の問いに、オルハは答えなかった。
ただ静かに一歩を踏み出す。
女は何に怯えたのか、彼に歩調に合わせて一歩、また一歩と後ずさる。
「ね、ねえ・・・・・?それ・・・・・」
「なんだい?」
さらに酷薄な笑みを浮かべるオルハに、女は絶句した。
あの八重歯にしては長い歯はなんだ?いや、それだけではない。
まさか・・・・・先ほどの考えが、再び鎌首をもたげて頭に舞い戻ってくる。
逃げなきゃ!
女は身を翻すと、一目散に駆け出す。だが、女にすれば自分の命を賭けた逃走も、僅か五歩で潰えた。
「待ちなよ」
「!」
甘い声は、直接、耳朶に吹き込まれた。
肩を掴まれ、女の顔は雪に覆われたかのように真っ白になった。確かに引き離そうとした相手が、まるで瞬間移動でもしたかのように目の前に立っている。
「君は用意がいいね」
くすりと笑むと、オルハは女が首から下げていたロザリオを引きちぎり、道の脇へと投げられた。いかなる力で投じられたものか、別に鋭いようには見えない十字架が、木の分厚い皮を貫いて深々と突き立っている。
「あなた、まさか・・・・・!」
「その、まさかだよ」
それ以上、女には口を開く暇も与えられなかった。
すいと伸びた優雅な手が、彼女の顎をまるで果物か何かのように掴むと、そのまま中に差し上げたのだ。
「さっきは何を言おうとしてくれたのかな?私の“同族”のことを、化け物とかなんとか・・・・・」
「あ、あ、う、あ・・・・・」
凄まじい腕力だ。片腕で人一人持ち上げるパワーは、まさしく人間離れしている。しかし大きく見開いた女の瞳に浮かんだのは、驚きではなく恐怖そのものの色だ。これからどうなるか知っている、死刑囚の目だ。
彼女を差し上げた青年の口が待っていたようにゆっくりと開かれた。薄い唇の間から零れたのは、やや通常より尖った舌と、八重歯というには長すぎる犬歯の輝きだ。
「君はどんな味がするのだろうね?」
そっと首に唇を這わす。白々と光る牙が、柔肌にゆっくりと沈んでいった。
数秒で“食事”を終えたオルハは、女を、いや、女だった肉を地面へと無造作に落とした。その顔は驚愕と恐怖に彩られ、彼の嗜虐心を満たすにふさわしい表情だ。
さらに彼の顔には冷酷な笑みが浮かぶ。
その直後、掌に浮かんだのは青白い炎のゆらめきだ。
「急がねば・・・・・“魔術師”閣下もお待ちであろうからな」
投じられた炎はやがて女を飲み込み、焼き尽くす。紅蓮の炎がまき起こる中で、木々たちは変わらない柔らかな光をたたえ、今日もまた黄金色に輝いていた。